『校則』がいろいろ言われてますね。

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 最近『校則』に関するニュースや記事をよく目にするように思います。その多くは理不尽、時代錯誤、強制・・・そんなどちらかと言えば負の印象の言葉とともに語られていますね。今日はこんな記事を見つけました。

学生服を強制しないで 校則通りに、保護者ら要望「同調圧力の縮図」

 お隣福岡県で『制服』ではなく『標準服』とされているのに学生服を強制させるのはおかしい、校則通りの運用を求める要望書が提出されたというお話。

 制服に関しては、確か「貧富の差の出やすい身なりを揃えるため」だかが導入理由だったと記憶してます。これに関しては、個人的には概ね賛成ですね。佐賀市周辺だと小学校はほとんど制服が絶滅しちゃいましたが、私服だとやはりすごく差を感じますね。制服だから毎日同じ服で行けますが、私服になれば2着を交互に着まわすわけにもいかないでしょう。特に高学年の女の子なんかは、色々と大変だろうなということは、想像がつきます。わざわざ「いじめ」の原因になるようなことを増やす必要はないかな。上の記事では『同調圧力の縮図』とタイトルが打ってありますが、自由になった時の子供同士の同調圧力の方がよっぽど怖い気がするんですけどね。
 制服が高額というのが問題なのなら、自治体の補助制度を作るとか、別にいっそジャージにしちゃってもいいんですよね。ただ、それも丈夫で長持ちだけど高額。と毎年買い替える必要があるけど安価とどっちがいいのかってのは難しいですが。

 で、ここからが本題なのですが、校則や法律などの『きまり』って何故あるんでしょうか?

 僕が高校の時、ルーズソックスが流行ったんですよ。当時、僕の通っていた高校には、「靴下が白であること」という規定しかありませんでした。長さもワンポイントの有無なんかも自由。靴も自由だったんです。ですが高3の時、靴下が学校指定の校章の入ったものに指定されました。そして卒業後数年で靴もローファーに決まったんです。どうやら人気スニーカーの盗難とかがあったみたいです。これを見てるとよくわかりますが、「きまり」ってなにも全て権力者・為政者(学校や先生)が作ってるわけじゃないんですよね。上に挙げた靴下や靴の規定は間違いなく、生徒側が作った(作らせた)ものです。

 結局のところ「きまり」ができるのは、あまりに逸脱してしまう人の存在で、秩序が乱れるからです。殺人を犯す人がいなければ、殺人罪は必要ありませんし、窃盗を犯す人がいなければ窃盗罪は必要ありません。しかし、4000年も前に作られた「目には目を、歯には歯を」の一節で有名なハンムラビ法典にさえ、そういった罪の記載があるんです。罰の与え方こそ違えど、禁じられていること、罰せられることの内容は、現代法と似通った部分が大半です。
 人間はどうやっても集団を作り、集団の中でしか生きていくことができません。集団を作る以上は「秩序」が必要ですね。その秩序を個人個人が良識に従い守れば仰々しい「きまり」は必要ないんですよね。

 ハラスメント性のあるものや、現状との乖離の激しいものは変えていく必要があると思いますが、なんでもかんでも「強制は悪」と自由にしてしまうのは、ちょっと違うと思います。もちろん過去にいたであろう逸脱者の為に、現代の子供たちがその十字架たる校則を背負うのはおかしいと思いますが、変革を望む側も、変革後の不具合・無秩序化は十分に考えておくべきだと思います。インターネットやSNSの発達で、追い風も向かい風もあまりに極端になりすぎている世の中なので、流されないように気をつけたいものです。

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