勉強ができる子は〇〇している

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『勉強ができる子は〇〇している』よく見る見出しですね。

例えば、「勉強ができる子は、ノートがキレイ」とか。で、そういうのを見ると、大人はすぐに我が子に同じことをさせようとするし、子供たちも真似てみようとしますね。そのこと自体に悪いところは一つも無いのですが、表面だけ真似ても効果は出ないかなぁとも思ってます。

今のノートの話を例にとれば、ノートの汚い成績優秀な子もいますし、ノートのキレイな成績の振るわない子もいます。要は統計論的な話で、勉強ができる子は、ノートがキレイな子が「多い」って話だと思うんです。ノートのキレイな事と成績がいいことには因果関係は無い。ただ、統計を取ってみると、勉強ができる子にはノートがキレイな子が多いよねって話なんだと思うんです。

じゃあ、なんで成績の良い子にノートのキレイな子が多いのか、なぜそこに相関関係が生じるのかって話ですが、きっとノートがキレイってことも、成績がイイってことと同じで「結果」なんですよね。どうやったらできるようになるかな、どうやったら分かることを増やせるかな、って考えて行動していた結果、ノートはキレイになっていったってことです。

学習の基本は「復習」だと思います。一発で理解し定着させるなんて難しいことが易々とやれる人は少ないですから、少なからず回数をこなすしかないと思うんですよ。そこで「いかに復習しやすくするか」「いかに復習をスムーズに行える準備をしておくか」ってことを考えていくと、自ずとノートはキレイになっていくと思うんです。いわゆる「機能美」ってヤツですね。使いやすくを追求した結果の「美」。コレが勉強できる子のキレイなノートへ行きついた道筋じゃないかなと思うんです。

逆に勉強が苦手な子でも、ノートのキレイな子はいる訳ですが、そういう子の思考を辿ってみると、「いかにキレイに書くか」今風に言うなら「いかにバエるノートを作るか」に焦点が当たっている気がします。こちらは「造形美」ってヤツですね。見た目の美しさが最優先。結果として成績には結びつきません。もしくは、先生のキレイな板書を丸写ししてるだけ。先生だって考えて板書されてますから、それはそれでかなり復習しやすいノートになってるとは思いますよ。ただソレを効果的に使うか、使わないかは、また別の話ですね。

極論すれば、ノートなんて本人が見返したときに困らなければ、他人が見て汚くても何の問題も無いんです。そして見返すことが無いのなら書く必要さえありません。こういったところを一切無視して表面的に真似るのは効果が出ないと思います。

もし『勉強ができる子は〇〇している』なんて記事を見かけたときは、鵜呑みにして表面的に真似るのではなく、そこに行きついた思考の跡を追って欲しいと思います。何故、成績の良い子のノートはキレイになったのか。何故、ノートがキレイな方がいいのか。理由があるハズですよね?他人の思考の因果関係を追うことで、因果関係のしっかりした論理的な思考を身につける、これこそ最良の方法じゃないでしょうか。

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